このブログでも紹介した以下の二つの鬱陵島が書かれた地図がある。
1907.年の『大韓新地誌』と、1906-07年の.國語讀本である。
1907.『大韓新地誌』張志淵
慶尚北道図 韓国国立中央図書館 古朝61-84
There are two Detailed Ulleungdo map, one is Daehan-sin-Jisi (1907) and Korean Language Reading (1906-1907).
これら、1906年の国語読本の江原道付属圖・並びに1907年の大韓新地誌の慶尚道付属図・
に記載されている鬱陵島図は、
1905.09.17.の分道詳密韓国新地図 青木恒三郎編 大阪:青木嵩山堂
がその元だと考えられる。しかしながら、この分洞詳密韓国新地図の鬱陵島が明確にどの地図からの引き起こしなのか、わからない。
We can confirm the original design of These two Detailed Ulleungdo map above, is Bundo-Syo-mitsu Kankoku Sin Tizu (New detailed provincial map of Korea, 1905).
この地図に非常に似ている地図が、以下二つの地図
1904.第15艦隊鬱陵島見取り図(明治三十七年海戦史) 1906.05.26欝陵島見取り図 奥原
である。 奥原の地図は、分道詳密韓国新地図よりも後に発行されており、
一方、第十五艦隊鬱陵島見取り図は分道詳密韓国新地図よりも前に出ている。
There are another two map which desgins resemble to ;
One is No 15th fleet Ulluengdo outline map (1904) and Outline map of Ulluengdo (1906). No.15th fleet map is older than "New Korean detailed map". Okuhara's Ulluengdo outline map (1906) is newer than "New Korean detailed map"
この二つの地図には山などの詳しい描写は記載されて居ない一方で、
分道詳密韓国新地図よりも地名が詳しく書かれている。おそらくは調査委を行ってそれを反映した地図であると考えられる。
また、海中に記載された数字からもわかるように、おそらくは水深を測っている可能性がある。
しかし、分道詳密韓国新地図の下になったような地図が出てこないのである。
These two outoline map doesnt describes the detail of geography information, although there are richer infomation of Ulluengdo detailed place of names than "New Korean detailed Map" In the sea there are depth information. We dont know which detailed Ulluengdo map the Aoki reference to design.
1904.第15艦隊鬱陵島見取り図(明治三十七年海戦史)(左、もしくは上)
1906.05.26欝陵島見取り図 奥原 (右、もしくは下)
これらは、少なくとも1904年ころの地勢認識を反映したものだと考えられる。
1902年の鬱陵島調査においては、鬱陵島の地名の詳細の記載はあるものの、添付図がない。
そして、1900年には日本側も赤塚が略地図を作製し、鬱陵島の地名を記載している。
those two map show the information of Ulluengdo around 1904-1905 at least.
1900年06月12日 在釜山 領事官補 赤塚正助 鬱陵島調査槪況및山林調査槪況報告の件の添付圖
しかしながら、この赤塚の鬱陵島地図が、1904年の第15艦隊鬱陵島見取り図や1905.の分道詳密韓国新地図とデザインが根本的に異なっていることは明白である。
これより以前の鬱陵島の詳細図が、
1880年の戦艦天城の調査による鬱陵島東岸圖
https://sites.google.com/site/takeshimaliancourt/_/rsrc/1285666733400/Home/takeshima-koushou/Ulluengdomatsushimajukdo.jpg?height=320&width=285
があるが、これは東岸の記載しかないので、比較の対象には入れにくい。
また、1883年には、李奎遠の鬱陵島調査二より作成された鬱陵島外図(左、もしくは上)と、日本側調査員である桧垣巡査の鬱陵島圖(右、もしくは下)があるが、
この二つの地図は、ともに鬱陵島は長方形のデザインで共通している。
1900年06月12日 在釜山 領事官補 赤塚正助 鬱陵島調査槪況
は若干四角いデザインとも云えるかもしれないが、
しかしながら、この1883年の李奎遠の鬱陵島調査二より作成された鬱陵島外図と、桧垣巡査の鬱陵島圖は、デザインが縦長の長方形に対し、赤塚のそれは横長の長方形で有るゆえやはり異なる。1900年の地図は、1900年の調査の時に作ったとみるのが妥当であろう。
そして、1883年のこの二枚の調査地図並びに1900年の赤塚の鬱陵島地図が、1904年の第15艦隊鬱陵島見取り図や1905.の分道詳密韓国新地図とデザインが根本的に異なっていることは明白である。
これらことを考えると、1900年の赤塚正助の地図以降に、
1904年の第15艦隊鬱陵島見取り図や1905.の分道詳密韓国新地図の元となる、詳細地図があるのではないか、と予想する。
全くの推測にすぎないのであるが、その候補と考えられるのが
まずは1899年から1900年のYu-Jongtongの鬱島記を書いたときに、もしかしたら付属図があったかもしれないし、
また、1902年の日本側調査の時に、地名は詳細に述べられているものの、添付図がないことから、
これら二つに何かヒントがあるのではないか・とも思う。
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