だが今回の「東海独島古地図展」でも、竹島を韓国領とし、日本海を東海とすることのできる論拠は展示されていなかった。パンフレット等では、「東 海の海域に東海の地名が表記されている」としているが、朝鮮時代を通じて、東海に該当する海域は黄海及び渤海と朝鮮半島東岸の沿海部を指しており、今日の 日本海とは重複しないからだ。古地図展を企画した「東北アジア歴史財団」は、この事実をどのように受け止めているのであろうか。
東海に対する「東北アジア歴史財団」の理解は、パンフレットに記載された説明文によって判断がつく。パンフレットでは『新増東国輿地勝覧』(1531年)の「八道総図」を掲げ、次のように解釈しているからだ。
「八道総図は『新増東国輿地勝覧』の最初に収録されている朝鮮全図である。国家の機密を守るため、誰でも知っている重要な山と河川、島、道と海の名称など、簡単な情報だけが収録されている」。
だが「八道総図」に対するこの説明文は、文献批判を等閑にした恣意的解釈に過ぎない。『新増東国輿地勝覧』の跋文には「総図は則ち祀典載す所」と記 され、「八道総図」には国家が祀る自然の神々の対象が描かれている、としているからだ。「八道総図」の東海は、朝鮮半島東岸の海濤を祀る神祠の所在を示し ており、海の名称を記したものなどではない。
現に、同じ『新増東国輿地勝覧』に挿入された「江原道図」等でも、遠洋部分については「東抵大海」(東、大海に抵(至)る)、「東北抵大海」(東 北、大海に抵(至)る)と明記して大海とし、沿海部とは明確に区別しているからだ。つまり日本海の大部分は、大海として、認識されていたのである。
さらに『祀典』に規定された東海は、高麗時代に編纂された『三国史記』(「雑志」)でも確認ができ、新羅時代、高麗時代、朝鮮時代を通じ、朝鮮半島 東岸の沿海部を指している。それを「東北アジア歴史財団」では、「八道総図」に東海の文字があることから今日的な感覚で日本海と読み替え、日本海を東海と 称した証拠としたのである。しかし日本海を東海と呼称することが一般的となるのは近代以後のことで、朝鮮時代までの東海は、朝鮮半島東岸の沿海部と黄海や 渤海を指していたのである。
これと同様、東海を日本海にまで拡大解釈する例は、「A Map of Marco Polo's Voyages」の解説でも見られる。同地図はイギリスのエマニエル・ボーエンが1744年に制作し、日本海の部分に「EASTAN SEA」とあることから、パンフレットでは西洋社会が日本海を東海とした証拠としている。だが東海は、朝鮮半島東岸の沿海部を指しており、日本海に該当す る「EASTAN SEA」とは重複しない。それも「EASTAN SEA」は、「A Map of Marco Polo's Voyages」に記載されている点からしても、マルコポーロの『東方見聞録』(別名、「東方紀行」・「マルコポーロ旅行記」)に倣い、「東方の海」とで も解釈したほうがよい。
それをパンフレットや会場の説明文では、「東海の古地図で注目される事は、ドイツ、イギリス、ロシア等で制作された西洋の地図では、韓国の古地図よ りも早い時期に、東海の海域に東海の地名が表記されている点だ」としているが、その事実もない。西洋地図では当該海域を「日本海」、「高麗海」、「朝鮮 海」とするものが圧倒的に多いからだ。
従って、今回の「東海独島古地図展」は、日本海を東海に改めるべきとする韓国側の思惑とは裏腹に、韓国側の主張する東海が日本海と重複しない事実を 実証してしまったことになる。偽りの歴史を捏造し、国内外を欺瞞し続けることは、日韓関係をいたずらに複雑にするだけである。この種の政治的宣伝は、韓国 に対する国際的な信頼度を下げ、歴史に汚点を残すことはあっても、良好な結果を後世に残すことはない。
0 件のコメント:
コメントを投稿