http://sjw.history.go.kr/inspection/insp_result.jsp?mode=k&sjwid=SJW-D20051240-01900
承政院日記粛宗20年5月24日
南九万などが入試して朝鮮人が蔚陵島に入らないようにするという倭人の伝言に対して対処する問題に対して議論する
*文献の内容自体はすでに知られているものですが、見える見えないの記述の議論において、どこから何が見えるのか?(半島東岸から鬱陵島がみえる、と文献に書いてあるのか?それとも鬱陵島から竹島が見えると文献に書いてあるのか?)に関係する記述に気がつきましたので貼っておきます。要するに、この文章でも、半島の東岸の大関峯に登れば鬱陵島が見える、と記載があるわけです。
○南九萬曰, 卽見東萊府使狀啓, 則向者倭人來言, 朝鮮人入於五竹島, 此後則無使更入云。彼所謂竹島, 卽我國蔚陵島也。臣見芝峯類說則曰, 倭奴占據礒竹島, 礒竹, 卽蔚陵島也。島一也, 而名稱有異, 彼不曰蔚陵, 而曰竹島者, 此不過厭其有蔚陵之名也。彼漢一出來, 尙可惡說, 再出則其爲害, 將至無窮, 豈不大可慮哉? 臣意則宜遣接慰官, 前去書啓還送事言之。且以回賓作主事, 責之矣。上曰, 予見芝峯類說及輿地圖, 則蔚陵島數字缺飄風人所居之地也。倭人所謂竹島, 必是蔚陵島也。其據名稱說, 意慮巧矣。以此責之, 可也。申汝哲曰, 倭人之據名稱說, 其造意之巧險, 於此可見。若不辨別, 任其所爲, 則彼將來據其地, 略無忌心。其爲貽害, 必至無一字缺矣。柳尙運曰, 彼漢, 一向施惡, 使我國之人, 不得接足於其島, 或有入去者, 則彼必捉送致責, 其弊難支矣。上曰, 若無變通之擧, 則必將有如此之弊矣。南九萬曰, 臣於向者, 登大關嶺, 望見其地勢, 則其島與蔚珍縣相對, 其中多有崇山峻嶺, 地方可百餘里矣。申汝哲曰, 臣適往觀魚臺, 望見其島, 則其間相距, 不甚遼遠, 視若南山之近矣。問諸漁人曰, 汝等漁於彼乎? 答曰, 彼處, 多有大魚, 故時時往漁矣。且其上, 有大木參天, 竹大如杠, 地且沃饒云。彼若知其可居而來據之, 則其附近三陟·江陵等地, 受害必多, 甚可慮也。南九萬曰, 臣見新羅圖, 則此島, 亦有國名, 降新羅納土貢。高麗太祖時, 島人獻方物, 我太宗朝, 不勝倭患, 遣按撫使, 刷出流民, 而空其地。卽今倭人來據, 非但以祖宗之地, 棄與他人, 將來之患, 有不可勝言者矣。更遣接慰官, 前去書狀還送事, 言之, 何如? 上曰, 前去書狀還送事, 送言, 可也。
9/12/2012
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